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とりあえず日々思ったことなんかをつらつらと。

 

ミュシャ展

ミュシャ展

現在、東京の国立新美術館で開催されているミュシャ展を観覧してきました。
普段は17世紀のオランダ美術をメインに展覧会へ出かけている僕ですが、ミュシャは近代の画家でも特に好みの画家です。
今回、その代表作であり、本国チェコでもあまりきちんとした公開がされてこなかった至宝であるスラヴ叙事詩が20枚すべて日本にやってくるということで、これは見に行かねば絶対後悔すると思っていた展覧会です。
なにせ、スラヴ叙事詩がチェコ国外に出るのは初めて。これからもきっと海外に出る機会はほとんどなかろうという作品群です。
となれば、普通に見ようと思ったらチェコまで行かねばならず、それはちょっと大変です。そんな貴重な一群の絵画が「全部」セットで日本で公開される。
これはすごいことだと思っていました。
ちょっと仕事とか体調とかの関係で開催期間中に行けるか不安だったのですけれど、何とかフルで1日空いた休みを手に入れ、体調もそれに向け整えて、いざ観覧と意気込んで出かけました。

ミュシャといえば、以前、森アーツセンターギャラリーで開催された展覧会を観覧しています。その時は、ミュシャを世に知らしめる切っ掛けとなったミュシャ様式の作品をたくさん見たのですが、今回はどんな構成になるのだろうと思ってワクワクしていました。全100点の展示物があると事前情報を仕入れて、1割~2割程度は前に見た作品と重なりそうだということも踏まえて、見に行きました。
ミュシャといえばミュシャ様式ですが、ミュシャ様式を有名にしたのはリトグラフによる劇場ポスターです。その辺はリトグラフ故に枚数がある作品ですので、目にすることが容易な作品でもある。事実、今回の展覧会ではミュシャのリトグラフの多くが堺市から提供されて公開されていたものです。堺市所蔵なら見に行けるじゃない?
実際、以前見た展覧会とパッと思いつくだけでも、サラ・ベルナール関係のポスターや四芸術など、軽く10点を超える作品は見た記憶があったと言える作品でした。
良い芸術作品は何度見てもよいのですが。

さて。
今回の展覧会では会場が混むことを予想して出かけました。ゴールデンウィーク初日ですし、事前情報で混んでいるというのは耳にしていたので。
それで会場時間前後に到着するように出かけたのですが、すでに入場待機列ができていました。慣れたスタッフの誘導、タイミングとりのおかげで、割とスムーズに入場できました。
普段はあまり音声ガイドは借りないのですが、今回はスラヴ叙事詩がメインの観覧物。スラヴ民族の歴史やフス戦争といった歴史の知識などが必要となることが必須だと思えたので、より作品群を楽しむために音声ガイドを借りました。入場待機より音声ガイドを借りる列の方が時間かかった感じでしたが、あって正解でした。スラヴ叙事詩20点全部にそれぞれ解説がついており、絵のモチーフについての背景を学びながら観覧できました。お勧めですね。

会場に入り、ちらちら見える作品群からちょっと目を外して、展覧会ではお約束の挨拶文を読み、振り返る。
そこからもう、圧倒されました。巨大な一枚の絵が左手の壁面に飾られていて、奥正面にも同サイズの絵が飾られているのが目に飛び込んできました。スラヴ叙事詩の1枚目である「原故郷のスラヴ民族」と2枚目である「ルヤーナ島でのスヴァントヴィート祭」です。そう、この展覧会、メインの展示物が最初に展示してあるんです。
いきなりスラヴ叙事詩です。
少し、前説的にスラヴ叙事詩に至るまでの作品を見せてからスラヴ叙事詩が来るだろうと思っていた僕は度肝を抜かれた形になりました。
巨大。圧倒的に巨大な絵。ミュシャ独特の淡い色使いではあるものの、深く吸い込まれるような印象的な絵がそこにありました。
僕は以前のミュシャ展を見たときに青を使った絵が少ないと感じました。その青をふんだんに使った絵がそこにありました。「原故郷のスラヴ民族」でした。この絵の圧倒的な迫力と巨大さにまず心を奪われた。そんな展覧会でした。
そこからひとつひとつ、スラヴ叙事詩の絵を見ていきました。以前感じた青が少ないという印象から逆に、青い絵が多い印象を受けました。それはスラヴ民族の苦難の歴史や、戦いや死といったモチーフを表すのに青が使われていたから。
スラヴ民族の苦難の歴史を表現していくのに、悲しみを示す青が外せなかったのだと感じました。以前に感じたミュシャが青という色に持っていたのではないかと思った印象を裏付けるかのように、青の使われ方がすごく特徴的でした。
逆を返せば、青がない作品はスラヴ民族の平和的な時代を描いていたり、勝利のシーンだったりするわけです。こう考えたのは僕個人の主観なので、専門家の方から言わせれば違うかもしれませんが、僕は直感的にミュシャという画家が青という色に持っていた印象を、そうとらえました。
番号の塊で一か所に展示されていますが、順番は変えられて掛けられている部分もありました。関連する絵は並べて掛けられていますが、絵がとにかく大きいのでスペースの関係上で、入れ替えられていた印象。一応、見る人が特に意識しないで会場を歩いていれば、1枚目の「原故郷のスラヴ民族」を最初に見て、20枚目の「スラヴ民族の賛歌」を最後に見るようには並べてありました。僕は順番通りに行ったり来たりしながら観覧。一応、ナンバリングされているということはそれに意味があるのだと思ったので。
ですが、ナンバリングと製作順も一致しないし、たぶん、ナンバー順に見れば歴史をたどっていくことになるのだと思うのですけれど…。どうだったんだろう。少なくとも登場人物が前後することはなかったです。

スラヴ叙事詩を見終えた後は見慣れたアール・ヌーヴォー調の絵を観覧。ここは前に見た展覧会とのダブりも多かったですが、きちんと鑑賞。やはりミュシャといえばこれだよねと思いながらも、スラヴ叙事詩の衝撃が頭に残っていて、リトグラフの絵は少しちゃちに見えてしまいました。いや、素晴らしい絵なんですよ。どれも。
そして、会場内で一番空いていたのが、世紀末の祝祭と題されたコーナー。1900年のパリ万博の関係の絵と、プラハ市民会館の壁画の下絵が展示されたコーナーです。ここの絵はミュシャ様式でもなく、壁画の下絵ということで軽視されちゃったのかもしれないですけれど、よく見ると、どれもスラヴ叙事詩に繋がっていく重要な絵なんですよね。人物画が多いのですけれど題材になった人物はどれも、スラヴ叙事詩に描かれた人物。スラヴ叙事詩の簡易版ともいえる絵がそこにありました。これを軽視していっちゃうのすごいもったいないなと思いながらも空いてるのをいいことにゆっくり鑑賞しました。
そこからはヒヤシンス姫などまたアール・ヌーヴォー調のミュシャ様式が多用された絵が多く、また人が溜まりやすい傾向にあったように思えます。
ミュシャがポスター画家から、スラヴ叙事詩のような一大作品を手掛けていくようになる過程の作品が展示されていました。
やっぱり本の挿絵とか、切手や紙幣のデザインなんかもやってたらしく、そういうのも展示されてるのがミュシャらしいなぁと思いました。

今回の展覧会で印象に残ったのはやっぱりスラヴ叙事詩です。
もうその迫力といったらない。
他の絵はかすんでしまう。人の情熱ってすごいと思いました。スラヴ叙事詩は発表当時は時代遅れだと言われたそうですが(当時は抽象画などが主流になりつつある時代で、写実的傾向のある画風のスラヴ叙事詩は寓意が込められていても時代遅れの烙印を押されてしまったようです)、当時の人、見る目無い!と思いましたね。20点の作品の中で特に印象に残ったのは1枚目の「原故郷のスラヴ民族」と20枚目の「スラヴ民族の賛歌」、そして、唯一未完の作品である18枚目の「スラヴ菩提樹の下でおこなわれるオムラジナ会の誓い」でした。恐怖、不安を描いた「原故郷のスラヴ民族」、未完で終わりスラヴ民族解放のための誓いのシーンを描き、神に見守られた図を描いた「スラヴ菩提樹の下でおこなわれるオムラジナ会の誓い」、そして、苦難と困難を乗り越えた末に勝ち取られた解放を描き、自由と平和のシンボルである「スラヴ民族の賛歌」が特に印象的でした。
その他、スラヴ叙事詩を見ていて全体的に思ったこと。
絵の中からこちらを見ている人物がほぼ必ずいること。全部が全部に描かれているわけではないのですけれど、大半の絵に絵の中から何かを訴えかけるかのようにこちらを見ている人物が描かれていました。「原故郷のスラヴ民族」の主人公であるスラヴ民族の男女なんかは典型的なその例ですね。
何かミュシャに問いかけられているような気がしました。
そして、スラヴ叙事詩全体からは何か祈りというものを感じました。スラヴ民族が歩んできた苦難の道。その中で生まれたであろう人々の祈り。そういうものが込められた絵だと感じました。

素晴らしい作品群。
見れて本当に良かったです。感動の一言につきる。
全100点の展示で、僕が観覧にかかった時間は3時間弱でした。まぁ何回もスラヴ叙事詩を見に戻ったからね。
あ、スラヴ叙事詩のうち5作は写真撮影が可です。皆さん写真をとってました。
ただ、人が多いので人が写りこまないように撮影するのは困難かな?
あと、絵が大きいからどうしてもまっすぐ全体像を撮るのは難しいです。


「スラヴ菩提樹の下でおこなわれるオムラジナ会の誓い」
右サイドが切れちゃってますが、人とぶつからずにとるのはこれが限界。ななめに撮影されているのはどうしても下から見上げる形になるからです。他の4枚を撮影したのには人が写りこんでいます。どうしても人が多くて避けれなかった。
でも記念。
「スラヴ民族の賛歌」をバックに自撮りもしてきたよ。(笑)
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屈折する星屑

屈折する星屑

江波光則:著
雨水龍:イラスト
ハヤカワ文庫JA


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江波さんの新作。
ハヤカワ文庫からはもう一作、「我もまたアルカディアにあり」という作品が出ていますが、それと同様、SFテイストの作品となっています。が、ストーリーのガジェットとしてスペースコロニーや宇宙船、ホバーバイクなどが出てきますが、内容的にはガガガ文庫で刊行された江波作品に似たテイストとなっていて、「我もまたアルカディアにあり」とはまた違ってSFじゃなくても話は成り立つなぁと思いました。

主人公ヘイウッドは屈折した青年。青春時にありがちな刹那的な思考で生きている人物です。オートジャイロを切ったホバーバイクを乗り回し、コロニー内の人工太陽にタッチするというイカロスダイブと言われる危険行為を繰り返しているような青年です。
最初はヘイウッドが恋人のキャットと、イカロスダイブで息まいている姿を描くところから始まります。ライバルであるヴィスコンティを負かしていい気になり、危険な行為から生き残ったという酩酊感に酔うという、そんな暮らしをしている青年でした。
この雰囲気は廃棄コロニーである物語の舞台となっているコロニー全体に広がっていて、若者たちは大体同じような感じの人物だったりします。
また、大人たちも何も言わない。かつて自分たちがそうだったから、そして今も適当に過ごしていても生活できてしまうコロニーのシステムにどっぷりと浸かっているから。ただ1人だけヘイウッドが会話し、ヘイウッドに「考えろ」と諭すのはジャンク屋の親父であるアンクルアーサーだけという状況でこの物語は始まっていきます。
このアンクルアーサーの「考えろ」というのが後々にかなり重い台詞というか、ヘイウッドの人生を変えていく切っ掛けになっていきます。

そんな状況で始まるこの物語。
隕石にへばりついた状態で1艇の軍用宇宙艇が落着することで、ヘイウッドの人生が急転していきます。
隕石の落着事故に巻き込まれたことで恋人であったキャットを失い、空へ上がる気力を失い、地上で狂犬のように生きるようになったり。ライバルであったヴィスコンティが空で後輩に負けたことから、マシンの修理を依頼されて空へ上がることを取り戻したり、隕石に乗ってやってきた脱走軍人で亡命者であるジャクリーンとのかかわり合いを得て、徐々にヘイウッドの中で何かが変わっていく。
読んでいると何かを失いながら過去にしがみつき生きていこうとするヘイウッドの立ち位置というのが悲しく感じます。
ヘイウッド自身もそれには薄々気づいていて、大人=自分の親やジャクリーンを見ながら、何かを考え、何が必要なのかというのを少しずつ、少しずつ蓄積させていきます。
ただ、彼自身はまだ酩酊感の中に居たいと考えていて、でもそれは許されなくて、というのがすごく悲しく思えました。

ジャクリーンとの対決を経て、決定的に子供でいることを、若者の刹那的な思考でいることを禁じられ、それまで考えていた自分の中にあった大人になることを受け入れざるを得なかった、このコロニーがどんな場所であったかを知ってしまった、考えて答えに行きついてしまった中で、どう生きるかの選択を強要される。
そんな物語となっていました。
最後に彼は馬鹿をもう一度だけやることに決めたようでした。そして、腐った世界を破壊することも選び実行した。
馬鹿をやるのはそれに気づき実行したご褒美であったのかもしれません。
子供だった、1人でやってるつもりで、周りに支えられていた。
じゃぁ最後に本当に1人で馬鹿をやろうじゃないか、そんな終わり方。
この後、ヘイウッドがどうなったかは読者の想像に任せるという形で終わっています。

たぶん、ヘイウッドはまっすぐな大人になったんじゃないかな?
汚さを大人の持つ汚さを拒絶して、馬鹿をやった最後の思い出を抱いて、まっすぐでクリーンな大人への階段を上ったんではないか?
僕はそう感じました。
ジャクリーンに諭された結果ではあったけれど、それは結果であって、ヘイウッドはたぶん1人でもたぶんそこへたどり着いた。
いろんな事件が起こったせいで時期は早まったけれど、1人の若者は青春を卒業していったのだと思います。
その過程は苦しく悲しいものであっただろうけれど。いつか彼が世界を楽しめる日がまた来ればいいなと思いました。

読後感がすごく難解に思えて、自分の中で咀嚼するのにちょっと時間がかかった作品でした。江波作品は読みやすくてわかりやすいけれど、ハヤカワで出てるのは甘く見ちゃいけないかもしれないですね。
なんか、ちゃんと読者層を選んで作品を出すレーベルを選んでる気がしました。
これからは気を付けていよう。

 

記憶をテーマに思考したら面白いんじゃないか?

人の記憶ってどこまで確かでどこまでが不確かなものになるんだろう?
という疑問が湧く様な事にであいました。
まぁ、僕がやったことではないとはっきりしていることを、やった本人からはがねがやったと言われてすごく困惑したという事態なのですけれど。
人間の記憶ってあいまいで、不確かで、正確さには欠けるなぁと思った次第です。
僕自身、鬱が一番むごかった時期の記憶はすごくあいまいで、数ヶ月に及んで記憶が欠落しているような状態です。
その後も数年にわたって、普段よりあいまいでしっかりとした記憶になっていない状態というのを経験しています。
だから、記憶違いとか、そういうのは理解ある方だと思うんですけれど、今回のような、記憶のすり替えみたいなパターンに何回か遭遇したことがあり、そういうのって、どうやって起こるのかなぁ?ってメカニズム的なところが気になりました。

でも、こういった問題ってどうやって調べれば答えにたどり着くのかよくわからなくて、調査には着手できてません。
ちょっと、そんな余裕ないですしね。今。忙しくて。
忙しいからこそ、記憶違いってのも発生するのかもしれないですけれど。
別の記憶となんらかのきっかけで、結びつきがこんがらがったときに、こういった記憶のすり替えみたいなことが起こると考えるのが一番自然な感じがしますね。
実際のメカニズムは分からないですけれど。

しかし、記憶ってどこまでが信用できるのだろうか?
ちょっと怖くなりますね。
自分の記憶は本当に、自分が思っているほど正確なのかと考えると、サイバーパンクの世界へ行ける感じがします。
サイバーパンクなんかではその辺を重点的に扱ってる作品も多いですからね。
「記憶屋ジョニー」とか。

記憶は忘れることもあるから精神の平衡保つことができると言いますけれど、この忘れるの中に思い違いをする。別の記憶とこんがらがるというのも入っているんでしょうね。きっと。
あまりに自分に不都合で、心に負担をかけるような記憶は忘れるとか、あいまいにすることで人間は生きていける。
あまりに、記憶を確かに持ちすぎると、ちょっと心に負担がかかりすぎるような気がします。
几帳面な人が鬱になりやすいというけれど、記憶力が良い人ってのも鬱になりやすいんじゃないかな。
そんな風にも考えました。

記憶と一言でいっても信じられる記憶、信じられない記憶、あいまいな記憶、いろいろあるなぁと感じました。
ちょっと、テーマにして思考したら面白いかもね。

 

本当の弱者は誰だ?

弱者は保護というか、守られるべきだと思う。
優遇というか、手助けをするべきだと考える。
だから、電車の中に優先席などがあるのはよいことだと思うのです。
でも、時々、弱者って誰だって思う瞬間があったりするのもまた事実という話。

都会を走る電車には女性専用車っていう車両があります。
痴漢被害を避けるために女性が乗車することが前提となっている車両です。女性以外には小学生以下の子供や体の不自由な方が利用してよいことになっています。
でも実質問題としてですね。女性専用車を使っているのは女性だけなんですよね。
女性が性的に弱者であるという前提で、女性の権利を守るという意味で作られた車両なんですけれど…。女性ってそんなに社会的に弱者かい?って疑問に思う訳です。
あれが女性専用車ってことで痴漢被害があるという前提で話が進んでいて、男性の言い分は聞かれないのではないかと思ったりするんです。
事実、痴漢冤罪事件ってのはあとを絶たないみたいですし、女性側が冤罪を吹っかけてくるという話も聞きます。
実際問題として、女性が「この人痴漢です!」って声を上げたときに、駅員や警察は基本的に女性保護の立場に立ってしまうので、何もしてなくても、そのセリフを吐かれたら社会的に抹殺されますという抹殺宣告な台詞を女性側が持っているわけなんですよね。
ということは、本来の弱者ってさ、冤罪を吹っかけられる可能性のある男性側なのではないかと思ったりもするのです。

女性専用車があるにも関わらず、女性専用車に乗らない女性も多いですし、冤罪事件を吹っかけてくる女性もいるという事実があるにもかかわらず、男性には保護の手が差し伸べられてないのはなぜだと思うんですよね。
電車に乗っている人数の大半が男性だからとかそういう理由なの?
ちょっとチープな理由だなぁって思わないでもないです。

もし、本気で痴漢被害を失くしたいなら、女性専用車、男性専用車と完全に分けるべきだし、そうしてないのなら、あれを女性専用車というのはやめた方がいいのではないだろうかと思うんです。
本当に弱者であり、保護を求めている人がその恩恵にあずかれるようにするべきだと思う。
例えば、女性専用車という名前はやめて、エスケープ車両とか優先車両とするとかね。

まぁ、なんでこんなことを考えたかっていうとさ。
今朝、電車に乗ったときに、入り口付近にいると邪魔になるし終点まで乗るので、奥の方へ入ろうとしたのです。
その時に、鞄が女性に当たったのね。
そしたら鬼のような形相でにらまれたの。
で、鞄を棚に乗せたときに、その女性との距離が近くなったんだけど、また鬼のような形相でにらまれたんです。
その女性とは逆側にいた男性がもうちょっと隙間を詰めてくれればぶつからずに済んだんだけれども、結果的にはぶつかった。
謝ったんだけれども、鬼のような形相でにらまれてしまったわけです。
そんなことがあって、そんなにぶつかるのが嫌ならば、すいている女性専用車に行けばいいのにと思ったんですよね。
そして、同時に女性専用車って弱者を守る車両じゃなくて、ただ単に女性を優遇している車両だなぁなんてことを考えて…。
それで、電車の中で弱者は誰だって思ったわけです。

障害を持たれている方や、小さい子供は明らかに弱者でしょうけれど…。
女性が弱者っていう時代じゃない気がするんだよね。
昔ほど、ラッシュ時の男女比も開きはないでしょ?
痴漢の話だってさ、僕の乗ってる路線だとたぶんほとんどないんだよね。それほど混んでないから。
じゃぁ、冤罪を吹っかけられる男性の方が弱者になるじゃんってことを考えて、もやもやした次第です。

本当の弱者は誰だ。保護を求めてる人のためにあの車両はあるべきだなのではないかな?

 

状態。

怒りと焦りと。
今の自分には必要ないものというか感じてはいけない感情。
でも抑えることができなくて、カリカリとしています。
良くないですね。

人間の感情って自由になりそうなものなのに、実際には自由にはならなくて、自分では制御できないですよね。
それが、楽しいとか嬉しいという感情であれば自動的に湧き上がってきても問題はないのですけれど。
怒りや焦りといった負の感情が自動的に湧き上がってきたときには何か対処をしなければなりません。
お茶を飲んで気を静めてみたりするといったことは割とメジャーな気晴らしではあります。
ある一定のレベルを超えてしまうと、そういった即効的な対処では効かなくなって、抜本的に対策をしないといけなくなってしまいます。
今の僕の状態がその状態。
残念ながら、今、抜本的な対策をとることができていないので、僕の状態としては、「良くない」状態にあります。

とりあえず、現状を乗り越えることが抜本的な解決案なので、時間の経過とともに乗り越えていけることを祈るばかりです。
早くこの状態を脱したいです。

祈ろう。天に。そして、自分に。

 

ACCA13区監察課

同名のコミックが原作のアニメ。1クール12話で放送されました。
原作は未読で視聴。
ドーワー王国という架空の国が舞台となっており、ドーワーは13の自治区からなる国。
それをまとめているACCAという組織(治安維持組織で警察や司法、消防なども兼ねる。アメリカでいうFBIやCIAも含んでる感じでした)を舞台に話が進むサスペンス。
各区を査察ということで巡っていくジーンを主人公として、ジーンは各区へ行ったときに手土産としてたばこをもらう。たばこは貴重品と設定されていて、安易にもらえるものじゃないというのが話のキーになっていました。

ストーリーは各区でクーデーターが画策されているという噂がある中、ジーンが各区に異常がないか見て回る、区長やその地位にいる人物からたばこをもらうという流れで数話が流れていきます。
すごく静かなんですよ。この話。
そのうち、ジーンが王家の血を引いているということが分かり、たばこをくれるというのはクーデーターに参加して、ACCAを廃止しようとしている王太子を廃し、ジーンを次期国王に据えるという目論見に参加しますという意思表示だったという話。
各区で思惑がちょっとずつ違ったり、ACCAを束ねる5長官の中での陰謀劇あり、王家の血を見守る間諜の活躍ありと、こういったサスペンスものとしては、ネタがいくらでもあるのにしずかーに話が進行していきます。
なんでしょうね。
緊迫感がないのとはちょっと違うのですが、アクション性とかそういうのが廃絶されており、現実にありそうな陰謀ものとして描かれているからでしょうかね?本当に静かに物語が進んでいく感じを受けました。

結果的にクーデターは起こるものの、それをよしとしないジーン自身の思惑や協力者の影響もあって、クーデターは目的を果たしACCAは存続しますが、王太子も廃されることもなく次期国王として安定を得、ジーンとその妹であるロッタも王家の人々と交流を持ちつつも、今の生活を維持していけるという誰もがWin-Winになる終わり方でした。
その結果として、裏で手を引いていた5長官のひとりである、リーリウムだけが割を食った感じですかね。まぁ、リーリウムが最終的には悪役なんで仕方ないというところですが。
結果、13区のひとつでありリーリウムの出身区であるフラワウ区が独立しますが、ドーワーとしてはフラワウ区が無くてもやっていける基盤ができてリーリウムの思惑は完全に失敗しています。ドーワーはフラワウ区がいずれ帰ってくるのを待つというエンディングでした。

つまらないということはないのですが、本当に静かに話が進み、また絵柄のスタイリッシュさと相まって、人を選ぶかなぁこれ、って思いました。
話の半ばまではクーデターがどうのと言いつつも、ジーンの観光巡りみたいな話ですしね。
珍しいタイプの作品だなって思いました。

 

ツツジ。

ツツジです。

暦の上では立夏が近づいてきていて初夏も近い雰囲気ですが、まだ暖かかったり寒かったりもする春の陽気。今朝はちょっとひんやりとしてました。
そんな中、ツツジが満開を迎えようとしてますね。
ツツジは割と垣根とかにされてることが多い植物なので目に触れる機会も多い花です。

昔は濃いピンクの花が主流で他の色はほとんど見なかったように思うのですが、最近は薄いピンクのものや白いのもあって、見てて楽しいですね。
これは薄いピンクにすこし濃いピンクのアクセント入ってるものでした見た目も鮮やかで、少しなまめかしさを感じました。
朝から。(笑)

いろんな花が咲いていき春は深まっていってますね。

 

楽園追放 –Expelled from Paradise-

2014年11月に公開された劇場用アニメーション。
先日3月末にテレビで放送されたのを録画したので視聴しました。本当なら録画してすぐ見る予定だったのですが、体調面とかいろいろあって、見られずにいました。
もともと、この作品、劇場に見に行ければ見に行きたいと思ってた作品だったんですよね。ただ、公開劇場が少なくて地元ではやっていなかったんです。少し遠出して見るか、会社帰りに劇場へ寄るかという選択だったのですけれど、その時にあんまり体調がよくなくて結局見に行けませんでした。
どうもこの作品を見るのには障害が多いような気がします。僕的に。
その代りににノベライズが劇場公開前に発表されていたのでそれを読んでストーリーは知っています。テーマも物語も抑えた状態で、今回、テレビで放映されたのを視聴した次第です。

人類が人口増加問題を人間のデータ化という手段で解決している遠未来が舞台。
データ化された人類はメモリが許す限り自由に過ごすことができるディーヴァという楽園で暮らしています。
ディーヴァ、ラグランジュポイントに設置されたコロニーであり、巨大コンピューターといえる施設。
そこへ地球から不正アクセスしてきて、謎の広告を流すフロンティアセッターという存在に対して捜査するるために、主人公であるアンジェラが捜査官として派遣されるという物語。
アンジェラは地球での捜査のために生身の身体を得て、捜査に乗り出すのですが、地球の流儀に困惑しながら、地球に残った人類の生活を目にすることになります。
そしてフロンティアセッターと邂逅し、その存在がどういうものなのか、目的が何なのかを知って、ディーヴァとの共存を訴えるが…、フロンティアセッターの目的はディーヴァの上層部には理解されず危険分子とされてしまいます。
フロンティアセッターの協力で脱出したアンジェラは、フロンティアセッターの目的である遠宇宙への探査航海への出発に協力するという流れです。

そんな物語を描きながら、人類とは、AIとは、より人間らしいのはどちらだと問いかけてくるストーリーで、結果的にアンジェラはより人間らしい生き方をする決断をします。
結果的に楽園であるディーヴァを追放されることになるのですが。
ただ、それはそれで追放されても、楽しそうでより人間としての生の喜びを得られる結末だったのではないかと思いました。

まぁ、ストーリー知ってて見たのですが、アニメでも十全にそのテーマや物語が語られていて満足。
ノベライズではどうしても得られない、スピード感あるアクションなども映画ならではの綺麗な映像で表現されていて、アニメならではの楽しみもできました。
最後に主題歌を飄々と歌いながら去っていくフロンティアセッターが妙に面白かったです。
ノベライズとはまた違った魅力があって、何度もみたくなる良作だなぁって思いました。

楽園追放 –Expelled from Paradise-
アニプレックス


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ヘヴィーオブジェクト 北欧禁猟区シンデレラストーリー

ヘヴィーオブジェクト
北欧禁猟区シンデレラストーリー


鎌池和也:著
凪良:イラスト
電撃文庫


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13巻目です。
前の12巻がいつもの3章構成を廃して7章で構成された短編の連続といった作品となっていましたが、この巻も15章と小分けにされていて、音楽CDのトラック表記を模した形になっています。
これはこの巻の主人公がいつものバカ二人じゃなくてマリーディで、マリーディの好きなロックバンドのCDを模した感じになってるんだとおもいます。
そう、この巻はマリーディが主人公になっています。へヴィーオブジェクトの1巻以降はどこから読み始めても良いという例のルールに従って、この巻を読む人もいるのかしらね?
たぶんいないとは思いますが、死の祭典を読まないでいきなりこの巻を読み始めると困惑すると思います。マリーディについてほとんど説明がないので。
最初から順に読んでる人には死の祭典での活躍や、他にもちらほら顔や名前が出てきているのでなじみのキャラではあるのですけれどね。
ですが、クールビューティ―な性格と12歳という年齢のミスマッチから人気は高いキャラクターなんだろうなと思いますね。
読んでいて、クウェンサー&ヘイヴィア組より読みやすい、動いているキャラクターに感情移入のしやすさを感じました。

死の祭典では特殊な環境が舞台となっていましたが、今回はマリーディが普段戦っている北欧禁猟区が舞台となっています。
また、マリーディは航空戦力のパイロットですが、そうそうにベイルアウトして地上に降りて、活躍はほとんど地上での活躍になります。
全体的に今まで北欧禁猟区っていろいろ出てましたが、具体的にどんなところなのか描写はされずに来ました。ここらで、北欧禁猟区ってこんなところだよという紹介をするかのように、マリーディはあっちへ行ったりこっちへ行ったりと大忙しの活躍を見せていました。
おかげで、北欧禁猟区がどんな場所なのかよくわかったです。
結局、人はどこでも戦っているし、どこでも陰謀を張り巡らしている。割を食うのは一般の兵士や一般人だというところですね。

マリーディは厳しい人だけれど、結局は弱者の味方の良い人なんですよね。普段は兵士ですので、敵対者には容赦はないですけれど、事情が絡めばいろいろな気を回すことができる有能なキャラクター。そして今回、それに色を付けるのがお荷物になるナンシー。
ナンシーは大人なキャラクターですが、精神的にはマリーディのが上で上下関係が逆転しているのが面白かったです。
登場の仕方の不自然さとかあって、ナンシーが結果的に敵役になるのかなと途中ハラハラする感じがありましたが、今回は(へヴィーオブジェクトでは良い役が一転、敵役になったりする展開も多い)そんな不安も実現することなく、おおよそ理想の展開で終わっていきました。
細かく章分けされているので目まぐるしく展開が移り変わっていきますが、ナンシーの存在が結構、息抜きになって面白かったです。

エリートが出てこない話ですけれど、エリートがどうやって作られているのか、エリートの人材をどうやって確保しているのかにかかわる話となっていました。
やっぱり人道的にはよろしくなかった。
前回の話もエリートの悲劇にまつわる話だったのですが、今回の話はさらにハードな一面があって悲しくなった。
最後はスカッとしましたけれどね。
たまにはクウェンサーやヘイヴィアが出てこない巻というのも良いですね。

 

Fate/strange Fake④

Fate/strange Fake④

成田良悟:著
森井しずき:イラスト
電撃文庫


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4巻目です。
あとがきで「5巻で終わると言ったな、あれは嘘だ」と作者の成田さんが書かれていますが、奈須さんや三田さんが突っ込みを入れてる通りというか、そんなことはすっかり忘れてました。
というよりも、Fate/Zeroで扱った第四次聖杯戦争のサーヴァント7柱の戦いのほぼ倍のサーヴァントが出てくるこの話が、文庫版のFate/Zeroより少ない巻数で終わるなんて誰も信じやしないと思うんですよね。
偽りの聖杯戦争で呼び出されたサーヴァントとされる6柱が出てきた段階、ぎりぎり許して、7柱目としてセイバーが出てきたあたりまでだったら、それくらいのボリュームで終わることもあるのかな?と思えなくもなかったですが、結果的に「7日限定の聖杯戦争」として13柱のサーヴァントが戦う話となった本作で、いくら何柱かのサーヴァントがあっという間に消し去られようと、5巻で終われるとは思えませんよね。
まぁ、倍くらいかかるんじゃねーの?という目で見ています。10巻くらいまでで片がつけばいいね?といったところでしょうか。

Fateといえば、源流のstay nightから派生して、いろいろな作品が出ていますが、本作はいろんな作品から設定をかいつまんで繋げている印象があります。
いろいろな作品が出てる中でも、世界設定を同一とするstay nightやZero、ロード・エルメロイⅡ世の事件簿などから登場人物を引っ張ってきていて、この話があの冬木の聖杯戦争と同一世界の物語であって、他のスピンオフとはちょっと違うのかなと思わせる設定が盛沢山です。特に今回は、ロード・エルメロイⅡ世の事件簿の登場人物である、ロード・エルメロイⅡ世に出番があり、また、話の一番盛り上がるところでクローズアップされるのが彼の弟子であるフラットであることから、その辺の設定とのつながりを強く意識しました。
実際のところ、この話って冬木の聖杯戦争の世界と同じ世界の話なんですかね?
PrototypeやGrandOrderなんかは、冬木の聖杯戦争の世界とはちょっと違う別世界の話とされているけれど、この話は色濃く冬木の聖杯戦争との関係が描写されています。
気になるのは明らかに冬木の話とは別世界の話となるPrototypeのアヤカが出てることなんですよね…。彼女がPrototypeで関係したサーヴァントの話をし始めたら、おのずとこのstrange Fakeも別世界の話ということになるのでしょうけれど。
今のところは、アヤカ自身も本人か怪しい状態ですし、僕個人の願望としては、この物語はstay nightにつながる話であってほしいなと思いっています。

さて、長々と物語の本流ではないところへの感想を書いていますが、本編の感想としてはすごく困る感じです。
なんというかですね登場人物、陣営が多すぎてですね頭の中で整理しながら読むのでかなり苦労します。
「7日限定の聖杯戦争」の二日目の様子を描いているのですが、基本的に各陣営が何をしているかを書いていって、最後の最後に椿と偽りのライダー(ペイルライダー)をめぐる戦いを描くという流れ。
フラットが意識のない椿を救うために、警察署長(偽りのキャスター陣営)と手を組んでことをなそうというところに、ジェスターやアルケイデスが絡んでてんやわんやになってるところに、各陣営が集まってきてさらにてんやわんやになってます。読者としては椿にはなにも非はないので、救われて欲しいのですけれど、その為にはペイルライダーは排除しないとダメだろうなぁとか思ってます。
結果をぼかしたまま、朝になった描写があるのですが、これどうなったのよとすごく続きが気になる。だって半分近くの陣営がそこで何かをしているんです。何かが起こって何かが始まるのは確か。
おそらくこれが「7日限定の聖杯戦争」の激戦の始まりだと思うんですよね。
期待感が盛り上がったところで終わっているので…早く続きを続きを!ということになる。うまい引き方だ…。
ずるい。

しかしアルケイデスの宝具、四次のバーサーカーみたいな能力ですね。明らかに、ギルガメッシュ対策な感じではあります。
今のところ、純粋な力ではギルガメッシュ、エルキドゥ、アルケイデスが3強といったかんじでしょうかね。
サーヴァントではないですが、イシュタルという存在が出てきてますので、この人物を含めて4強なのかな。
でも主人公ってアヤカ達セイバー陣営だよね?という疑問が。今のままだと、獅子心王に勝ち目ってあんまり無いように思えるんですよ…。
先が全く読めないstrange Fake。ともかく早く続きが読みたい!

 

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